激動の幕末、最後まで官軍との徹底抗戦を主張した小栗上野介だが、その獄門首は、大宮の古刹(こさつ)・大成山普門院(おおなりやま ふもんいん)に葬られている。
小栗家十二代目の旗本上野介(1827年–1868年)は、文政十年(1827)に江戸に生まれ、安政四年に御使番※1となり、2,500石※2の高禄※3となった。
万延元年(1860年)には、日米通商修好条約批准使節として派米されている。その後は、大老 井伊直弼に目をかけられ、陸軍、軍艦、勘定、海軍の各奉行おw歴任、幕臣随一の人物として幕府軍制の建て直しに活躍した。
いよいよ幕府が窮地に追い込まれてからも、大勢にさからい、抗戦一本槍を貫いたが、これも「徳川の御為」という上野介の所信から出たものであろう。
しかし、運命をともにしたいと考えていた徳川慶喜の恭順表明で望みを断たれ、慶應四年(1868年)には、新政府に追われて所領の上州権田村へ引き揚げることとなった。途中、同家先祖の墓がある普門院に立ち寄り、大猷和尚に、我が身の万一のことを憂慮、永代供養料50両を納めて立ち去った。この時、伝来の具足、信国の名槍、同家始祖・忠政の画像も同時に和尚に託していた。
だが、上野介の予感は、不幸に的中「農兵を要請し謀反を企てようとしている」と、官軍に主従ともども捕らえられ、逆賊として烏川原で斬刑となり、首はさらされた。時に42歳さった。
いなかへ隠棲後も、「誠忠無二の徳川武士」として最後まで何らかのチャンスを狙っていたのかもしれない。この時の刑で、命拾いをした小姓(こしょう)に銀之介という土屋村(現大宮市土屋)出身の者がいた。
銀之介は、夜中に主人上野介の首を抱み持ち、翌日普門院の大猷和尚の元まで持ち帰っている。和尚も変わりはてた殿様の姿にがく然としたが、主戦派の“ドン”とあって墓標もはばかり、ただ丸石を置いただけの粗末な墓(大宮市指定史跡)として残すも、命がけだったであろう。間もなくこの大猷和尚も何者かに殺害されるが、上野介の「首」にかかわっていたことで、新政府が裏で糸を引いていたかどうかは判明していない。
※1 御使番(おつかいばん):江戸幕府及び諸藩の職名。
※2 石(ごく):1石=180リットル。米の収穫量。
※3 高禄(こうろく):高給。