大成山 普門院

小栗上野介
日本の近代化の礎を築いた幕臣、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)。司馬遼太郎をして 「明治の父」と言わしめた先取の幕臣は、幕末の騒乱の中、罪なくして斬首された。 当院には、この悲劇の幕臣、上野介の一族の墓所がある。
小栗上野介 左から、村垣淡路守、新見豊前守、小栗豊後守
文化財調査報告書

・文化財の種類 史跡
・名称・員数 大成領主 小栗忠政一族の墓・三十基
・所在地 大宮市大成町二の四〇二 普門院墓地内
・管理者 普門院
・調査の結果 (指定候補とする理由)

 普門院は旗本小栗氏本家・同分家(信由家)・及び同分家(信友家)、三家の菩提寺である。この関係は江戸時代初頭小栗忠政が大成村五百五十石の領主として同村を釆地(さいち)としたことに始まる。元和二年(1616年)忠政歿後(ぼつご)はその二男信由が大成村を分知(ぶんち)され、その後その後裔(こうえい)が襲封(寛政重修諸家譜)大政奉還に至っている。
【武蔵国郡村誌 県庁所蔵旗本知行調記録】

 普門院には又一忠政と夫人、その子息の墓三基(小栗氏本家)、仁右衛門信由及びその累代の墓二十四基(同分家)、又兵衛信友と夫人の墓二基(同分家)及び上野介忠順(小栗家本家二十代)の墓一基、合計三十基が整然と現存している。
 小栗一族は松平の後裔で、徳川将軍家とは関係の深い由緒ある家柄である。
◯同家四代忠政は姉川の戦い(1570年)に功あって、家康から「又々一番の功名」とのことから又一の名と、信国の名鎗(この鎗は幕末に上野介が普門院にあづける)をもらい、その後の歴戦に活躍、上野国邑楽(おうら)・多胡(たご)・武蔵国足立郡及び下総国矢作領の内にて釆地二千五百五十石を与えられた高名の旗本である。

◯信由は忠政の二男で大阪夏の陣(1615年)に功あって一家をおこし、父の采地大成村五百五十石を分知され、さらに寛永二年(1625年)上総国で二百石を加増さ七百五十石の旗本となっている。
 采地大成村は信由の息の二代信政、三代の信行の襲封※1、途中、信行の代、すなわち延宝元年に天領※2となり、明和五年(1768年)五代信霽の時再び小栗家の采地に復し、以後六代信崇、七代信厚、八代信任、九代信将これを襲封、明治元年(1872年)武蔵知県事管轄となっている。
(寛政重修諸家譜、新編武蔵風土記稿、武蔵国郡村誌、旗本知行調記録、普門院墓石、同過去帳)

◯信友は忠政の三男で別に一家をおこし、下総国で五百三十石を知行している。
(寛政重修諸家譜)

◯上野介忠順は小栗氏本家二十代で万延元年(1860年)日米通商修好条約批准使節として渡米、帰朝後外国奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、勘定奉行を歴任した幕末史上特筆される英傑である。
  普門院と小栗家の関係は、寛政重修諸家譜などの文献、同寺の墓石・過去帳・古文書諸記録・位牌などから明確に把握でき、これらによれば同家一族がいかに同寺を厚く崇敬し、香華※3を絶やさなかったが窺われる。
(普門院古文書・諸記録、小栗上野介忠順日記)
 前記三十基の墓の内、上野介忠順の墓については、それがはたして首塚であるか否かには諸説あり、史料による確証はないが、ともかく上野介と同寺の関係をみれば、その墓が同寺に存在することもまた了とされる。 (小栗上野介忠順日記、普門院古文書、上野介忠順献灯) 
 かように累代領主の墓がその菩提寺に整然と存在することは市内にも稀で、領主と菩提寺の関係を知る好箇(こうこ)の史料のみならず、当市の歴史解明上貴重な史跡と思われ、従ってとくに事績ある者のみを取り上げて指定するより、むしろ三十基を一括して、これを大成領主小栗忠政一族の墓として指定し、ながく史跡として保存する措置を講ずることこそ適切と思われる。
(普門院と小栗一族より)

※1 襲封(しゅうほう):諸侯が領地をうけつぐこと。
※2 天領(てんりょう):江戸幕府直轄の領地。
※3 香華(こうげ):仏前に供える香と花。