普門院と小栗家
日本の近代化の礎を築いた幕臣、
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)。
司馬遼太郎が「明治の父」と表現するほど、
数々の功績を残した小栗上野介でしたが、
幕末の騒乱の中、罪なくして斬首されました。
普門院には、この悲劇の幕臣である
小栗上野介をはじめ小栗家一族の墓所があります。
日本の近代化の礎を築いた幕臣、
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)。
司馬遼太郎が「明治の父」と表現するほど、
数々の功績を残した小栗上野介でしたが、
幕末の騒乱の中、罪なくして斬首されました。
普門院には、この悲劇の幕臣である
小栗上野介をはじめ小栗家一族の墓所があります。
普門院は旗本小栗氏本家・同分家(信由家)・及び同分家(信友家)、三家の菩提寺です。
この関係は江戸時代初頭に小栗忠政が、大成村五百五十石の領主として同村を釆地(さいち)としたことに始まります。
元和二年(1616年)忠政歿後(ぼつご)は、その二男信由が大成村を分知(ぶんち)され、その後その後裔(こうえい)が襲封(寛政重修諸家譜)大政奉還に至っています。【武蔵国郡村誌 県庁所蔵旗本知行調記録】
普門院には又一忠政と夫人、その子息の墓三基(小栗氏本家)、仁右衛門信由及びその累代の墓二十四基(同分家)、又兵衛信友と夫人の墓二基(同分家)及び上野介忠順(小栗家本家二十代)の墓一基、合計三十基が整然と現存しています。
前記三十基の墓の内、上野介忠順の墓については、それがはたして首塚であるか否かには諸説あり、史料による確証はありません。
しかし、普門院と小栗家の関係は、寛政重修諸家譜などの文献、同寺の墓石・過去帳・古文書諸記録・位牌などから明確に把握でき、これらによれば同家一族がいかに同寺を厚く崇敬し、香華(仏前に供える香と花)を絶やさなかったかが窺われます。
【普門院古文書・諸記録、小栗上野介忠順日記】
普門院は、小栗家とともにその歴史を刻んできました。ここには、小栗家一族が眠り、今もその精神が息づいています。約30基の墓石が、彼らがどれほどこの地を大切に思い、どれほどの歴史を築き上げたかを静かに物語っています。
それぞれの墓石には、様々なドラマが秘められています。家族の愛情、忠誠、戦での苦悩と勝利。普門院と小栗家の物語は、この静寂の中で訪れる方々と共に語り継がれていくことでしょう。
皆さまもぜひ、普門院を訪れ、ここに秘められた小栗家の歴史と、普門院が大切に守り続けている精神に触れてみてください。