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最後の勘定奉行

日本の近代化の礎を築いた幕臣、
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)。

司馬遼太郎が「明治の父」と表現するほど、
数々の功績を残した小栗上野介でしたが、
幕末の騒乱の中、罪なくして斬首されました。

普門院には、この悲劇の幕臣である
小栗上野介をはじめ小栗家一族の墓所があります。

日本の近代化の礎を築いた幕臣、
小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)。

司馬遼太郎が「明治の父」と表現するほど、
数々の功績を残した小栗上野介でしたが、
幕末の騒乱の中、罪なくして斬首されました。

普門院には、この悲劇の幕臣である
小栗上野介をはじめ小栗家一族の墓所があります。

慶応四年(1868年)4月6日。ここ群馬県倉渕村、烏川の水沼川原において幕臣、小栗上野介は官軍の手で殺された。同じ4月11日官軍は江戸に無血入城。三百年続いた徳川幕府は名実ともに崩壊したのである。

“私はこの目で歴史を見たんです。この耳で歴史の中の人物の声をききました。歴史と現世は二つの歯車のように噛み合っていますね。”昭和22年に発表されたい井伏鱒二の名作「普門院さん」の書き出しである。

普門院の住職、阿部道山師が小栗上野介を斬った実在の人物を鎌倉に訪ね真実を解明するというのがこの実名小説の内容であるが、上野介の冤罪を晴らそうとの熱意に燃える住職の姿が生き生きと描き出されている。

小栗上野介は文政十年(1827年)江戸で生まれた。2550石の幕府直参※1である。万延元年34歳の時大老井伊掃部頭※2から日米通商条約の遣米使節の一員としてアメリカへ派遣された。正使※3、新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)、副使、村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)。小栗豊後守(おぐりぶんごのかみ)は目付(めつけ)であった。

帰国後、上野介となり以降8年の間に外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、海軍奉行と数多くの役職を歴任し、「またまた小栗さまのお役替え」と云いはやされたほどである。

慶應四年正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸へ逃げ帰った将軍徳川慶喜に対し、主戦論を強硬に主張して、その職を解任された。この時小栗上野介は勘定奉行兼陸軍奉行の要職にあった。

大宮市大成町(おおなりちょう)にある小栗家の菩提寺、普門院を訪ねました。このあたり江戸時代は大成村といって、小栗家の領地の一つだったのです。阿部道雄氏に伺います。

「ご住職さまのお父さんでいらっしゃいます道山師は上野介のどんなところに関心をもたれたんでしょうか」

「やはりこの普門院は菩提寺だったということですね。それから、上野介さんがあのような最後が悲惨であってあったという、そして生前の功績が逆に逆賊あつかいということで、その汚名を返上してあげたいという気持ちから小栗さんの足跡を追っていろんな点を探っていったんじゃないでしょうか」

「普門院と上野介の関わりあいを教えてください」

「今の本堂ですね、当時の小栗上野介の力によりまして、この大きな材木を集められたそうで、大変骨組みも立派で大きな材木を使ってますので、中にはこの近辺では集められなくて、伊豆の山から運んできたといわれています。この辺一帯は当時杉の木をたくさん植えました。最近その木をきりましたんですが、全部大体120年から130年位の年輪です。当時植樹したと推察できるんです」

普門院は曹洞宗の僧、月江正文禅師を開山とする。室町時代の初期、時の領主、金子駿河守大成が自らの館を寺院として禅師に捧げ大成山と名づけた、以来この地一帯を大成と呼ぶようになる。

戦国時代、徳川家康に従って数々の成功をたてた三河武士小栗忠政がこの大成村を領地とし、以後、普門院は小栗家の菩提寺となった。

慶応四年2月28日、天下の事すでに去ると見た小栗上野介はその領地、上州権田村に隠退を決意、その途中で普門院を訪れた。先祖の墓に詣でて親交のあった大猷禅師に後事(こうじ)を托したのである。

「上野介が最後にこちらに立ち寄った時の事をお聞かせ下さい」

「慶應四年の寒い季節にここに参りまして、三十三代の大猷禅師に自分の先祖の供養をたのみましてね、金五拾両というお金をおさめました。それから中山道を下って行ったわけです」

「幕末の頃の上野介の功績というものについて秋葉一男さんに伺います」

「幕末の時期というのは国内は尊皇か佐幕※4かということで大変麻の如く乱れたわけですが、同時に国外的にもロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカという国々が次々と通商を迫ってきたわけですね。そういう時期にあった小栗上野介が日米通商条約の批准書を交換するということでアメリカに行かれまして、アメリカの新しい文化にふれて日本をたてなおそうというわけで帰ってきてから、外国奉行とか、陸軍奉行、海軍奉行をやって、そして横須賀に造兵所をつくったり、鉄工所をつくったり、フランスから借金をして幕府の財政をたてなおし、幕府権力を強くし、日本の国を強い国家にし、新しい近代国家にしようと努力した方だと思いますがね」

「三河武士としての彼の気質というのはどんなだったんでしょうか」

「小栗家初代忠政、又一忠政、といわれた人ですが、関ヶ原の合戦の時に一番のりをして槍で家康を保護したということで、大変力の強かった人で、槍の又一ともいわれ、“又一番のり”という事で家康から又一という名前をもらったそうで、代々側近として徳川家につくした。その気骨というのが上野介にもあったと思われます。徳川家のために最後まで戦うと、これが本領だったろうと思うんですが」

小栗家の領地の一つであった上州権田村、現在の倉渕村権田、慶應四年3月1日、上野介は家族従者と共にここに到着した。上野介が仮の宿と定めた曹洞宗東善寺、しかし現在は昭和十二年(1937年)の火災のあと再建されているので当時の面影はない。

「上野介の性格については、勝海舟※6とよく比較されるようですが」

秋葉「勝海舟は同じ次期に咸臨丸※7の艦長としてアメリカに行ってますが、後に幕府の海軍をたてなおすため海軍練習所をつくっているわけです。同じ海軍のたてなおしを計った勝海舟と小栗上野介との性格の違いというのは、勝はあくまでも開明派的な考え方ではあるけれども、同時に幕府権力というよりは、むしろ日本の国民全体のことを考えていたと、かたや小栗上野介はあくまでも徳川権力を強くして日本国内をたてなおそうと、そのためフランスから技師を招いて造船所・鉄工所をつくったり、そういうために幕府の中で権力を得てくるわけです。

勝海舟の方は幕府の権力に対してはどちらかというと日和見的な考え方ですね。
広くみようというその違いがあると思う。そのために海軍練習所を追われて幕臣の重要な地位からおとされてゆくということがあった。これをみますと、やはり上野介は性格が強くて思った事はズバズバやって、一面は反対もあったようですが、しかし、徳川権力を再興させるというおおきな狙いの中では立派な幕臣であったろうと思われるのです」

時代の大きな波に呑み込まれた小栗上野介。今は温讐(恩讐か)を越えて静かにここに眠っています。

【森山逵夫『ふるさと紀行』より】

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