普門院の由緒
いまから六百年ほど前——応永三十三年の正月のある夜のことである。
武蔵国一ノ宮、氷川大明神(現、さいたま市高鼻町、氷川神社)の神主、岩井常陸介(いわい ひたちのすけ)が不思議な夢をみた。白髪の老翁が枕元に立って「いま社頭(しゃとう:社殿のあたり)に一人の高僧が仮寝の夢を結んでいる。この方は稀有な善知識であり、高僧である。よって、この方をながくこの地にとどめて布教せしめよ。西方の観音堂に案内するがよい」と云い終わると消えた。
神主は目ざめて、その夢か幻かがあまりにもまざまざしているのを不思議に思い、起きて社頭に行ってみた。と、まさしく一人の僧が社殿(しゃでん:神社の建造物)の回廊で安らかな寝息をたてているではないか。この寒夜(かんや)に布団もかけずに安眠できるとは、よほど修行をつんだ傑僧(けっそう:学識や修行にすぐれた僧)にちがいない。この僧こそ誰あろう、
曹洞の巨匠、月江正文(げっこうしょうぶん)禅師であった。
神主は月江和尚を起し、自分の屋敷に招いて厚くもてなした上、夢のお告げの話をして、この地にながくとどまるように懇請し、翌日、西方にある観音堂に案内した。時の領主は金子駿河守大成(かねこするがのかみ おおなり)である。ある日、この話を耳にして、半信半疑で観音堂を訪ねたのだが、たちまち禅師の徳風に帰依する結果となってしまった。
歳月がたつうちに、ついに駿河守は禅師の弟子となり、剃髪して名を幻公庵主(げんこうあんじゅ)と改めた。やがて城館をそのまま禅苑(ぜんえん)として自ら開基(かいき:寺院を創立する僧)となり、禅師を開山に拝請(はいしょう)するに至った。
山号は駿河守の号をとって大成山(おおなりさん)と名づけ、
寺号を日頃の守り本尊聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)のお経「観音普門品偈」の普門をとって普門院とした。以来、この地一帯を大成と呼ぶようになった。これが古文書に伝わる普門院のはじまりである。
「月江禅師は流辞、川の如く、老いとなく幼きとなく、聞く者信受せざるはなしといわれた人ですが、人間的な魅力もあったのでしょう。雄弁だけでは、こう人を変えられない。それにしても武士の頭領として、多くの家来を養っていたであろう駿河守が、その地位を捨て、財物を捨て、憎愛の世界にも別れ、頭を丸めてまったき修行に身心を捧げ切るとは容易ならざる決心です。
或いは駿河守にも諸行無常を感じる何かがあったのかもしれません。
たとえば敦盛を手にかけた熊谷次郎実直のように。または誤って袈裟を切ってしまった盛遠のように、武門の空しさを痛感する何かがあったのかもしれません。
そういえばこの普門院縁起は、児玉時国((こだま ときくに。鎌倉時代の児玉郡の豪族)が日蓮上人に逢って、たちまち武門を捨て、佛門に入り、玉蓮寺(埼玉県)を開いた話と同じです。運不運というか、幸不幸というか、人間と人間との出逢いの不思議さが、こんなところにもみられます」
-秋山喜久夫氏、埼玉の寺Ⅱより
普門院の歴史
日本の歴史 | 普門院の歴史 | |
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1426年 | 応永三十三年 月江禅師、曹洞宗の寺建立 | |
1435年 | 開基金子駿河守大成没 | |
1463年 | 月江禅師没 | |
応仁の乱 | 1467年 | |
姉川の戦い | 1570年 | |
本能寺の変 | 1582年 | |
関ヶ原の戦い | 1600年 | |
江戸幕府、始まる | 1603年 | |
大坂夏の陣(おおさかなつのじん) | 1615年 | 小栗家始祖、小栗忠政 没 |
1625年 | ||
1673年 | ||
1768年 | ||
1827年 | 小栗上野介忠順誕生 | |
1857年 | 小栗上野介、御使番 | |
日米修好通商条約 | 1858年 | |
1860年 | 小栗上野介、日米通商修好条約批准使節として派米される | |
大政奉還 | 1867年 | |
鳥羽・伏見の戦い | 1868年 | 小栗上野介、烏川の水沼川原にて斬刑 |
1872年 | ||
1934年 | 前庭に小栗上野介の招魂碑を建設 | |
1937年 | 東善寺、火災 | |
1947年 | 井伏鱒二氏『普門院さん』を発表 |