中里介山
中里 介山(なかざと かいざん)
1885年(明治18年)- 1944年(昭和19年)
日本の小説家。本名は、中里 弥之助。
中里 介山(なかざと かいざん)
1885年(明治18年)- 1944年(昭和19年)
日本の小説家。本名は、中里 弥之助。
中里介山純粋箇人雑誌『峠』第6号 小栗上野介より(昭和11年刊)
昭和11年4月26日
盗まれた小自動車の復帰修繕試運転を兼ねて大宮方面へドライブ。
途中与野と大宮の間で「小栗上野介墓所、普門院」とある標柱を認め帰途これをとぶらふ。
徳川家達公筆、蜷川新博士文章の大石碑がある。海軍省寄贈の武器がある。皆、最近この人を葬ふ為の建設と見受けらる。祖先、小栗又(成政)をはじめ、小栗家代々の墓所がある。
上野介場所は別に自然石が据えられている。
小栗上野介に就ては、最近各方面よりその材を慕ひ、冤を憫れむの心が深くなって来た。その最後の地と伝へられる上州権田村付近に於て何か供養があったという風説は聞いていたが、東京のこんな近いところに、斯様な親切な企てがあらうとは思わなかった。
ねんごろに墓をとぶらうた後、庫裡へ侵入して、いさゝか物を聞くと、住職らしい法衣(か?)の人が出て来て、応待して呉れたが、可なり、ぶっきらぼうであった。
それにもかかはらず、此の人をつかまへて種々と質問談話を試みたが最後に、先方で名刺を望まれるから、有り合せのものを呈上すると一見して、非常に喜んで、ぜひどうか、席へ通って下さい。と、云はれ、辞しかねて客殿の一隅を汚す。
この人は当院の住職、阿部唯一師であった。しかも、わが大菩薩峠には、やはり年来の随喜者で、上野介雪冤供養の催しも「大菩薩峠」に因縁すること深いものがあって、特に小生に面会を希望してゐたところ、今日計らずも、その人が、自身のこのこ出向いて来てくれたことの好遇を喜ぶこと大方ならず。
そこで、小生も時間を急ぐけれど、いろいろの事を聞きもし語りもし、また後日を約して立ち帰った次第であるが、その時の学問を大略記してみると、此の土地は小栗家の先祖伝来の知行地で五百石の領分であった事。小栗家は二千五百石の旗本で、此の地の外に上州権田村に千石の地一ヶ所と、それからもう一箇所ドコかに千石の地がある。